かたかな屋はカタカナ語を日本語に直してきた。一部の人々は「なぜかたかな屋はカタカナ語をわざわざ日本語に直すのか?別にカタカナ語を使っていけばよくない?」とかたかな屋に質問してきた。この文章では、彼はこの疑問に回答する。
結論から言うと、 かたかな屋は自分の人間性を表現しないことを悪いと判断するからである。言語は人間性の象徴であり、自分の言葉を持つ事は自分の人間性を表現していることである。自分の言葉を持たないことは自分の人間性を表現していないことである。
逆に、かたかな屋は自分の人間性を表現することを善と判断する。だから、彼はカタカナ語を日本語に直していく。この文章では、読者はカタカナ語の日本語化に関する善悪を見ていく。
善悪
始めに、かたかな屋はカタカナ語の日本語化に関する善悪を定める。その善悪は次である。
- かたかな屋はカタカナ語を日本語にすることを善と判断する。
- かたかな屋はカタカナ語を日本語にしないことを悪いと判断する。
日常的には、彼はカタカナ語を悪いと判断して、かたかな語を日本語にすることを善と判断する。だから、彼はカタカナ語を日本語にしていく。
では、なぜカタカナ語を日本語にすることは善であるのだろうか?カタカナ語を日本語にしないことは悪いのだろうか?ある種の人々はこれらの疑問を抱くだろう。この疑問に回答するために、かたかな屋はこの善悪を言葉と人間性、人間性の表現の観点から見ていく。かたかな屋はカタカナ語を日本語にすることは自分の人間性を表現することであり、自分の人間性を表現することを善と判断するので、 かたかな語を日本語にすることも善と判断する。
人間性の表現に関する善悪
次に、かたかな屋は人間性の表現に関する善悪を定める。その善悪は次である。
- かたかな屋は自分の人間性を表現することを善と判断する。
- かたかな屋は自分の人間性を表現しないことを悪いと判断する。
言葉は人間性の象徴の一つである。この世界で、人間のみが言葉を扱い、言葉は人間を動物から区別する。自分の言葉を作ることは自分の人間性の表現である。だから、かたかな屋は自分の人間性を表現することを善と判断する。彼はこのように判断する。この善悪は仮定や公理に近い。
逆に、自分の言葉を作らないことは自分の人間性を表現していないことである。かたかな屋は人間性を表現しないことを悪いと判断する。
かたかな屋は人間性に関する善悪を定めた。最後に、彼は人間性に関する善悪から日本語化に関する善悪を定めよう。
理屈
さらに、かたかな屋は日本語化に関する善悪を人間性の表現に関する善悪から導く。そのための理屈は次である。
- もしかたかな屋が自分の人間性を表現することを善と判断するならば、かたかな屋はカタカナ語を日本語にすることを善と判断する。
- もしかたかな屋が自分の人間性を表現しないことを悪いと判断するならば、かたかな屋はカタカナ語を日本語にしないことを悪いと判断する。
カタカナ語を日本語にすることは自分の人間性を表現することである。自分の人間性を表現することにはカタカナ語を日本語にすることカタカナ語を日本語にすることがある。「自分の人間性を表現すること」を「カタカナ語を日本語にすること」で置き換えると、上記が成り立つ。
このとき、次の結論が得られる。
言語は人間性の象徴の一つである。カタカナ語を日本語に変えて、自分の言語を作ることは自分の人間性を表現することである。かたかな屋は自分の人間性を表現することを善と判断する。上記の理屈により、彼はカタカナ語を日本語にすることを善と判断する。
反対に、カタカナ語を日本語に変えず、自分の言語を作らないことは自分の人間性を表現しないことである。上記の理屈により、彼はカタカナ語を日本語にしないことを悪と判断する。
まとめ
上記のまとめは次である。善の判断は次である。
言葉は人間性の象徴の一つである。
→自分の言葉を作ることは自分の人間性の表現である。
→かたかな屋は自分の人間性を表現することを善と判断する。
→もしかたかな屋が自分の人間性を表現することを善と判断するならば、かたかな屋はカタカナ語を日本語にすることを善と判断する。
→かたかな屋はカタカナ語を日本語にすることを善と判断する。
反対に、悪の判断は次である。
言葉は人間性の象徴の一つである。
→自分の言葉を作ることは自分の人間性の表現である。
→かたかな屋は自分の人間性を表現しないことを悪と判断する。
→もしかたかな屋が自分の人間性を表現しないことを悪と判断するならば、かたかな屋はカタカナ語を日本語にしないことを悪と判断する。
→かたかな屋はカタカナ語を日本語にしないことを悪と判断する。
劣等民族とみなされないために
最後に、かたかな屋は現実的な例をひとつあげてみよう。それは自分の言葉を持たないとき、自分の言葉を持たない人々は劣等民族と見なされる可能性があることである。より厳しい言い方をすると、自分の言葉を持たない人々は動物と同じであり、人間と見なされない可能性がある。人間性を表現していないので、彼らは人間として応答されない可能性もある。
インターネットやウランといった言葉は西欧白人の人間性である。そして、日本人がインターネットやウランという言葉を使い続けるということは、彼らがその単語に関する人間性を持っていないことを意味する。それは彼らが白人から授けられた人間性を無料で使っていることを意味する。
狩猟民族は農耕や牧畜を行わなかったので、彼らは農耕や牧畜に関する単語を持っていない。彼らはそれらを農耕民や牧畜民から授けてもらう必要がった。その結果として、農耕民族や牧畜民族は狩猟民族を農耕や牧畜に関する自分の人間性を持たない動物を見下してきた。この種の侮辱を防ぐためには、狩猟民族が農耕や牧畜に関する単語を自分自身で作る必要があった。