日本語とは何であるのか?~日琉語族の観点から~

この文章では、かたかな屋は日本語が何であるのかをきちんと定める。彼は日本語であるものと日本語でないものを明確に区別する。

背景

アミヨを見ると、日本人と呼ばれる人々は何でもかんでも日本語と呼び、現実を誤魔化す傾向を持っている。例えば、彼らはインターネットはもう日本語であると言ったり、ウランもプルトニウムも日本語(和名)であると言ったり、ラッコや札幌や稚内も日本語であると主張する。 

しかし、インターネットやウラン、プルトニウムは日琉語ですらなく、印欧語である。ラッコや札幌や稚内も日琉語でなく、アイヌ語である。インターネットはもう日本語と言ったこれらの主張は単なるウソであるが、日本人は自分たちが嘘をついていることを認識していない。

この種の嘘や誤魔化しを許すと、かたかな語が日本語にいつまでも訳されず、日本語が崩壊し続ける。なぜなら、「インターネットはもう既に日本語である(だから、日本語に訳する必要はない)。」という主張が無限に肯定され続ける。そのとき、人々はカタカナ語を日本語に訳するという発想すら持つ事が出来できない。

人々が自分たちの使っている言葉が日本語でないと認識した時初めて、カタカナ語を日本語にするという運動もまた始まる。そして、その認識こそがカタカナ語を日本語にするという運動の第一歩となる。そのためには、日本語と日本語でないものを明確に区別して、日本語に関する誤魔化しを防ぐ必要がある。さて、日本語が何であるのかを定めよう。

言語とは?

始めに、かたかな屋は言語が何であるのかを簡単に定める。その後、次の章で、彼は日本語が何であるのかを定める。

言語を定める前に、かたかな屋は言語を観察する。言語を観察すると、言語は単語と文法からなっている。例えば、単語には、行くや空があり、文法には、SOVやSVOがある。-edといった時制や-sといった人称などもまた文法である。日本語はSOVの文法を持ち、英語はSVOの文法を持っている。

この観察を用いて、かたかな屋は言語を単語と文法で定める。彼は単語を要素とし、文法を決まりとする。このとき、言語の定義は次である。

  • 言語は単語の集まりである。
  • その集まりは文法を持つ。

この2つの条件を満足するのが言語である。なお、単語と文法は既知とする。単語は集まりの要素であり、文法は決まりであり、その要素を適切な順に並べたり、その要素を変形する。

さらに、かたかな屋は単語と文法を言語から明確に区別する。Xという言語があるとき、その単語をX単語とする。その文法をX文法とする。このとき、印欧語の単語は印欧単語であり、印欧語の文法は印欧文法である。日本語の単語は日本単語であり、日本語の文法は日本文法である。

日本語とは?

次に、かたかな屋は日本語が何であるのかを定める。日本語の定義は次である。

  • 日本語は日琉語の部分集まりである。

別の言い方では、日本語は日琉語の部分集合である。ここでは、かたかな屋は日本語を日琉語の部分集合として定めた。このとき、インターネットは日本語であるといった言語の誤魔化しが生じなくなる。なぜなら、インターネットは日琉語でなく、印欧語であるので、それは日琉語の部分ですらない。

  • 日本語は日本単語の集まりである。
  • その集まりは日本文法を持つ。

日本単語には、空や海がある。日本文法には、SOVがある。言うという単語がおっしゃるという単語に変わるのも日本文法である。

理屈

さらに、かたかな屋は単語に関する理屈を定めて、言語に関する嘘や誤魔化しを防ぐ。その理屈は次である。

  • もしある単語が日琉単語でないならば、その単語は日本単語でない。

この理屈を使うと、インターネットは日本単語でない。なぜなら、インターネットは印欧単語である。インターネットは日琉単語でない。理屈を使うと、もしインターネットが日琉単語でないならば、インターネットは日本単語でない。

借用語について

最後に、かたかな屋は借用語について述べる。一部の日本人はインターネットは借用語であるので、インターネットは日琉単語であると主張する可能性がある。この誤魔化しの可能性を捨てるために、彼は次の理屈を作る。

  • もしある単語がX言語の借用語であるならば、その単語はX単語である。

この理屈を使うと、例えば、知覚や認識、判断は日琉単語でなく、シナ・チベット語である。インターネットは日琉単語でなく、印欧単語である。

関連

上記の知恵袋の回答が典型的であるが、インターネットは日本語になっていますといったような回答が寄せられる。印欧語も日本語にしてしまう。その結果、カタカナ語を日本語に直すという発想が生まれず、カタカナ語は洪水のように氾濫し続ける。

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